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第7官界彷徨

第7官界彷徨

五味文彦先生の平家物語(巻の8巻の9)

2012年12月9日
今週のNHKラジオ、古典講読の時間、五味文彦先生の「平家物語」は、巻の八に入ります。

「山門御幸」
 寿永2年7月24日の夜半、後白河法皇は御所をひそかに抜け出して鞍馬に行き、平家の手から逃れました。
 法皇は鞍馬から比叡山の横川へ。さらに東坂本の円融坊へと逃れ、院庁が比叡山に置かれることになります。

 平家は落ちていったけれど、源氏はまだ入京していなくて、主のいない都というのは、
♪聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ♪
 なのです。

 法皇が円融坊においでと知り、26日には藤原基房、基通はじめ、官位、加階に期待して政府の要職者たちが一人ももれることない、ほどに、坂本に集まります。

 7月28日、法皇は都に戻り、それを木曽義仲が5万余騎で警護します。
(本当は、法皇が戻ったのは27日で、義仲と会ったのは28日らしい。平家では、義仲の存在を際立たせるためにこう作ってみたらしい。)

 ♪この二十余年見ざりつる白旗の、今日はじめて都へ入る♪
珍しかりし見物なり。十郎蔵人行家、数千騎で宇治橋渡いて都へ入る。凡そ京中には、源氏の勢充ち満ちたり♪

 後白河院は蓮華王院に義仲と行家を召し、早速平家追討の院宣を下します。
(院は、このムサい源氏を都から追い出したかったらしい)

 法皇は3種の神器とともに西海に行ってしまった帝を帰すよう申し入れたが、平家が言うことをきかないので、高倉上皇の第三、第四皇子を即位させることにしました。
(一の宮は安徳天皇、二の宮は皇太子にしようと平家が連れて行ってしまった)
 
 5歳の三の宮は後白河上皇を見てむずがったが、4歳の四の宮はその膝から下りようとしないくらいなつくので「これぞ我が孫」と、法皇は涙を流して四の宮を即位させることにします。
 生母は藤原信隆の姫の殖子(ますこ)であり、殖子の母は清盛と時子の6番目の姫なんですって!

「那都羅」
 8月10日、木曽義仲は左馬頭になって越後の国を賜り、朝日将軍という呼び名を賜ります。
 行家は備後の国を賜りますが、義仲は越後を嫌い伊予の国を、行家は備後を嫌ったために備前の国を賜ったそうです。

 16日、平宗盛以下の平氏の一門は官職をとかれ、殿上の名札を削られます。
 17日、平家は大宰府に着きますが、九州の者たちが集まりません。
 20日、都では四の宮が即位して後鳥羽天皇となります。
 3種の神器のない天皇で、その即位にもいろいろあったので、後鳥羽天皇はその後、さまざまな場面で、天皇としてふさわしいか、という疑問符を持たれるのだそうです。

「宇佐行幸」
 平家は筑紫にて後鳥羽天皇のことを聞き、三の宮も四の宮もお連れするべきだったと思ったり、筑紫に内裏を作り都にしようとしたりしますが、なかなかうまくいきません。

 宇佐八幡に行幸し、参篭しますが、この神も平家に味方してくれる様子がなく、再び大宰府に戻ります。
 豊後を所領地とする刑部頼輔は、京より息子の頼経に平家に従うな、追い出せと命令したりするのです。

 ♪さるほどに、9月も10日余りになりぬ。
 荻の葉向けの夕嵐、独り丸寝の床の上、片布く袖もしをれつつ、更け行く秋の哀れさは、旅の空こそしのび難けれ♪
 今週は、波乱の後鳥羽天皇の登場でした。
 

2012年12月16日
「大宰府落」
 平家は筑紫に内裏を作ろうとしますが、維義の謀反により思うようにいきません。
 
 時忠は、平家は正統な流れの中にいる。と来歴を語りますが、維義は昔は昔、今は今として、九州から追い出そうと戦をしかけてきます。

 平家は維義の襲来におびえて、とるものもとりあえず太宰府を落ちていきます。
 
♪国母を始めまいらせて、やんごとなき女房たちは、袴の裾を高くとり、大臣殿以下の卿相雲客は、指しぬきのそばを高く挟み、かちはだしで水城の戸を出でて、我先に我先にと、箱崎の津へこそ落ち給へ。
♪折節降る雨車軸のごとし。吹く風砂を揚ぐとかや。
 落つる涙、降る雨、分きて何れも見えざりけり。♪

 原田種直は京から平家の元に参じます。山賀秀遠は数千騎で平家のお迎えに出ます。
 しかし種直と秀遠は仲が悪かったので、種直は引き返します。

 秀遠に迎えられますが、そこにも敵が来るとのことで小舟に乗って豊前の国の柳ヶ浦に渡ります。(瀬戸内海ね!)
 ここに内裏を作ろうとしますがそうもいかず、またもや源氏が攻めてくると聞き、とるものもとりあえず、海人の小舟に乗って海に浮かびます。

 そんな中、重盛の3男の清経は、月の夜に船端に出て笛を吹き、経を読み念仏したのちに入水してしまいます。
 人々は嘆き悲しんだけれどもどうしようもないのでした。
(清経は、仕えてくれていた貞能が同行しなかったことも悲観の一因らしい)

 長門は長い間知盛の知行国だったので、目代の刑部通資が平家の人々が海人の小舟に乗っていると知り、大船百艘あまりを建造、献上します。

 人々はそれに乗り、讃岐の国の八島に落ち着き、板屋の内裏を造ります。内裏ができるまでは宮は船の上。
 舵の音におびえ、白鷺の群れを見ては源氏の白旗かと驚く日々。

「征夷将軍の院宣」

 鎌倉の頼朝は、そこに居ながら征夷大将軍の院宣を賜ります。
 使いの中原泰定は10月4日に関東に到着。

 頼朝は院宣を私邸で受け取るのを嫌い、鶴岡八幡宮の若宮で受け取ることにします。
 受け取る役は三浦の介義澄。

 泰定が、院宣を入れた覧箱が返されたのを見ると、
 砂金が百両入っておりました。
 
 酒などのもてなしを受けた翌日、頼朝と面会します。
 頼朝は
♪顔大きにして背低かりけり。容貌優美にして言語分明なり。♪ 
 頼朝は泰定に鷹揚な様子を見せつつ、
 自分の命令に従わない義仲と行家、奥州の秀衡、常陸の佐竹を追討せよとの院宣を出すようにと泰定に要求します。

 泰定が帰途につくときには、土産に、鎧、太刀、滋藤の弓、馬13匹、3匹には鞍もつけ、12人の家の子郎党たちには直垂、小袖、大口、馬、をつけ、鎌倉から近江の鏡の宿までの宿場ごとに十石ごとの米を置く、という大盤振る舞い。 

 感激した泰定は、院に参り、関東の様子を細かく報告します。
 貴族たちは、頼朝の様子を聞き、現在都の守護をしている木曽義仲の無骨さとは比べようもない立派さだ、と期待してしまいます。

 今週はここまででした。

 実際は、頼朝が征夷大将軍をもらったのはこれから9年もあとの1192年7月で、この年の3月、後白河法皇は66歳で没しているそうです。
 後白河法皇は、頼朝がほしがっていた征夷大将軍の院宣を、出さないまま亡くなったのだそうです。

 大河ドラマ、平清盛の後白河さまのにやりとした顔が浮かんできますね。


2012年12月23日

 岩清水八幡宮から勧請して作った鎌倉の「若宮」で宣旨を受け、お土産をたくさん持たせた頼朝に比べて、、、、。

♪兵衛佐はかうこそゆゆしくおはしけるに、木曽の左馬頭、都の守護してありけるが、立ち居の振る舞いの無骨さ、物いふことばつづきのかたくななる(下品)こと限りなし♪

 (壬生野のあたりの猫間という土地の)猫間の中納言が訪問したと伝えられると
「猫が人に会いにくるものか」
 といい。
 その頃1日2食で昼食を取らない猫間に汚い食器に山盛りにして無理に食事をすすめたりする義仲を揶揄し、更に朝廷出仕の無作法も書きます。

 牛車はかつて宗盛のもので、牛飼いも宗盛の時と同じ牛飼いで、門を出ると同時に牛にムチを入れます。
 武士は馬には乗れても牛車には、合わないのです。
 やっと院の御所に着き、前から降りるべきものを、後ろから下りるということをします。
 かわいそうに、この牛飼いは斬られてしまったらしい。

「水島合戦」
 その頃、平家は八島(屋島)に本拠地を固め、山陽道8か国、南海道6か国の、14国を占めていました。

 寿永2年閏10月1日に、水島の戸に小舟が1艘出やってきました。
 義仲軍が漁師の舟かと見ていると、それは平家からの開戦を告げるものでした。
 大将軍に知盛、副将軍に教経で備えて、平家は水島の合戦で勝利をおさめます。

「瀬の尾最期」
 義仲はこの負け戦を聞き、1万余騎で備中の国へ急ぎ下ります。
 かつて北国の戦で生け捕りにされた瀬の尾太郎兼康は、義仲のはからいで生かされます。
 兼康は、身柄を預けられた倉光三郎に、これからは木曽殿に命を預けて働く、ついては備中は自分の知行地であり、良い草場も知っているので案内したいと言い、ともに備中に下ります。

 そして水練に慣れている兼康は、水練が苦手な倉光を討ち、平家に志のあるものは、木曽殿が下って来た折には、矢を射掛けようではないか、と呼びかけます。
 それに呼応して、備前、備中、備後の兵たちは馬や武器を用意して木曽の来襲を待ちます。

 瀬の尾は源氏を苦戦させたのち、落ち延びて行くところ、20歳の息子の小太郎宗康が、余りに太って落伍したのを見捨てて逃げたが、20町も先に行ってから引き返し、「自分のことは構わずに逃げてくれ」という宗康を助け、追いつく敵を射殺して応戦した後、もはやこれまでと息子の首をかき斬って、またもや敵陣にて奮戦します。
 生け捕りにされたものの、1日後には死んでしまい、主従の首は備中の国の鷺が森に曝されたのでした。

「室山合戦」
 そのうちに木曽義仲は八島近くまで押し寄せますが、都から叔父の行家が院に義仲を讒訴したとの情報が入り、都に帰ります。

 行家は播磨の国へ兵を進めます。
 平家は大将軍に知盛と重衡を立てて、木曽を討つために播磨の国の室山に陣をとります。
 5百騎ばかりの行家は平家の軍の中に取り込まれ、30騎ほどになって、和泉の国へ逃れます。
 平家は2度の戦に勝って、いよいよ勢いがつたのです。

「鼓判官」
 京の都には源氏の軍勢があふれ、青田を刈り、馬のまぐさにし、蔵を開いて物を取り、町では追いはぎまがいのことをし、人々は、平家の六波羅は恐ろしかったが、これほどまでのことはしなかった、と人々は言うのでした。

2012年12月31日
さて、今週のNHKラジオ、五味文彦先生の「平家物語」は、「鼓判官」

 木曽義仲の所に、後白河法皇が武士たちの狼藉を静めるようにと、壱岐判官朝泰を使いに出します。
 朝泰は鼓の名手で「鼓判官」と言われていました。

 義仲は対面して、法皇への返事もせずに「鼓判官とは萬の人に打たれたか、張られたか」と聞きます。
 
 朝泰は御所に帰り、義仲は朝敵になったと言います。
 法皇は、義仲を討つことにしますが、都の武士は義仲派なので、寄せ集めの軍勢。

 しかし、都の周辺の武士たちが義仲に背いて法皇の側につきます。

 義仲に向かい、今井四郎が
「十善の君との合戦は困難」法皇に反すべきではないと言いますが、義仲は「信濃の挙兵以来、敵に後ろを見せたことはない」と、聞きません。

「法住寺合戦」
 義仲は、馬に餌を与えるために青草を刈って何が悪い。兵糧米が尽きれば取ってもいいではないかと、院の御所に討っ手を命じます。

 後白河法皇は、院の御所である法住寺の武装を進めます。
 11月19日の朝、開戦。
 
 鼓判官朝泰は、赤地の錦の直垂に、兜だけつけて、築垣の上に立って片手に鉾、片手に金剛鈴を持ち、舞ったりして殿上人たちに笑われます。

 朝泰は「十善の君に背けば、汝等が放つ矢は自分たちを射、抜いた刀は身を切るだろう」
 と言いますが、義仲はそんなことは言わせない、と鬨の声を上げて攻め寄せます。

 樋口二郎はかぶら矢のかぶらの中に火を入れて御所の棟を射ると、たちまち御所は火の海。

 多くの武士や僧たちが逃げる途中で討たれます。

 明くる20日、義仲は630余人の首を鴨川の河原に並べます。
 その中に天台座主明雲の首もあり、法皇にそれを伝えたのは、信西の子の長教でした。
 法皇はそれを聞いて涙を流したのでした。

 義仲は、一天の君に打ち勝ったのだから、天皇になろうか、法皇になろうか、などと言い、手書きの覚明に「殿は源氏だからそれはだめ」などと言われます。

 鎌倉では頼朝が義仲を鎮めるために、範頼、義経を6万騎で出かけさせていました。
  
 義仲は平家との連携を考え、使者を立て、急いで京に上って共に鎌倉を討とうと言いますが、知盛は、誘いに乗って都に帰るなどとんでもない、3種の神器と帝はこちらなのだから、と断ります。

 平家は西国、頼朝は東国、木曽は都に、天下は三分して、寿永2年も暮れたのでした。

☆これで巻8が終わり、義経が活躍の巻9になります。
 義仲は
*武士の所領「安堵」
*右筆起用
*宮中警護の体制
*平家の所領取り上げ
*征夷大将軍
 など、画期的な計画を苦労して権限をかちえたのだそうです。 頼朝は鎌倉にいて、義仲のかちえた権限を十分に利用したのだそうです。
 知らなかったけど、義仲は歴史的意義のあることをした人らしいです。

2013年1月6日
平家物語巻の9
「小朝拝」
 寿永3年正月1日、院の御所では何の儀式もなく、平家は讃岐の国八島で主上がお出ましになったが節会は行われず、人々は思い出を語りつつ過ごされました。

「宇治川」
 1月11日、義仲は院に詣でて平家追討のために西国へ出向くと挨拶。
 13日、いよいよ出発という時に、鎌倉の頼朝が差し向けた範頼、義経の数万の軍勢が、すでに美濃、伊勢に到達しているとの情報にあわてて迎え打つ手立てをこうじます。

 義仲は都にいて、情報戦に破れたということらしい。

 鎌倉では
 梶原景季が頼朝の名馬「生食=いけずき」を所望したところ、何かの折に自分が乗るからと、同じような名馬「磨墨=するすみ」を下げ渡されます。

 その後、近江の佐々木四郎が出立の挨拶に行くと、頼朝は何を思ったのか、皆が欲しがる馬だけれど、と言って「磨墨」を下げ渡されたので、佐々木四郎は
「この馬で宇治川を真っ先に渡ってみせましょう」と感激します。
 
 足柄峠や箱根を越えて思い思いに行くうちに、駿河の国の浮島が原で、梶原景季が高いところで行軍の様子を見ていますと、ひときわ立派な馬が、立派な装備で多くの舎人を従えて歩いています。

 生食と直感した景季が
「これは誰の馬だ」と訊ねると、佐々木四郎だと答えます。
 怒った景季は、佐々木と刺し違えて、武者2人が死んで、鎌倉殿に損失を与えてやろうと、佐々木に声をかけると、佐々木は様子を察して
 余りに良い馬なので盗んできた、と答えます。
 仕方ないので景季は苦笑い。

 上る東国の軍は2手に別れ宇治橋に押し寄せます。
 大手は3万5千余騎、範頼が大将軍、絡め手は2万5千余騎で大将軍は義経です。

 ♪頃は睦月20日余りのことなれば、比良の高嶺、志賀の山、昔長柄の雪も消え、谷谷の氷打ち解けて水は折節増さりたり♪

 水かさが増している中、義経が一同の気持ちを確かめようと
「淀へ行くべきか、河内へ回るべきか」と言いますと、武蔵の国の住人、畠山次郎重忠21歳が、
「去る治承のいくさに、足利の忠綱が17歳で渡ったのだから」と、渡ろうとします。

 そこに、二人の騎馬武者が乱入してきます。
 生食に乗った佐々木四郎高綱と磨墨に乗った梶原源太景季でした。

 畠山重忠は有力御家人になったけど、頼朝亡きあと北条氏に滅亡させられた、、、らしい。
 人たらしの頼朝は近江の佐々木四郎と梶原景季を競わせた、、、らしい。

「河原合戦」
 義仲に勝った義経は飛脚便で合戦の模様を鎌倉に知らせます。
 頼朝は最初に「佐々木はいかに」と尋ねます。

 日記には、宇治川の先陣、佐々木四郎高綱、二陣、梶原源太景季、と書かれてありました。
(佐々木四郎は川の中でも、梶原景季をだますのですが)

 破れた義仲は院の御所に挨拶に行きますが、申し上げることもなく、引き返し、六条高倉の馴染みの女房の所に行き、名残を惜しむのでした。

 義経は戦を軍兵たちに任せて、院の御所の警護にはせ参じます。
 
♪義経その日の装束には、赤地の錦の直垂に、紫下濃(すそご)の鎧着て、鍬形打ったる甲の緒を締め、こがね作りの太刀を帯き、二十四差いたる裁生の矢負ひ、滋藤の弓の鳥打の本を、紙を広さ一寸ばかりに切って左巻きに巻きたる、これぞ今日の大将軍の符(しるし)とは見えし♪

 法皇はこの姿を格子の陰からご覧になり、大いに気に入ったのです。
 
 義仲は法皇の身柄を確保して西へ逃れて平家と一緒になろうと思いましたが、すでに義経が御所を守護しているのを知り、敵の軍勢と戦いつつ、去年信濃を5万余騎で出たものを、松坂を過ぎ、四の宮河原のあたりでは7騎ほどになってしまったのです。

2013年1月13日
「木曽の最期」
 
 義仲は涙を流しながら、今井四郎と別々の場所で死ぬのは悲しい。と、今井を探して賀茂川を越え、粟田口松坂にさしかかります。

 義仲は信濃を出るときに、巴、山吹という2人の美女を伴って来ていました。
 都を出るとき山吹は残してきたのですが、武芸に達者な巴は戦に負けず、残る7騎に残っていました。
 義仲は今井の行方を訊ねて勢多の方へ落ち、今井もまた義仲を探して都に上ろうとしていました。
 2人は、大津の打出の浜で再会します。

 義仲は「六条河原で討ち死にしようと思ったが、汝の行方を思い、ここまで来た」と語り、今井もまた
「私も同じ思い」と言い、乳母子の固い絆を確かめ合ったのでした。

 味方はまだ残っているだろうから「旗を上げよ」と、旗を上げると、周辺から寄り集まった味方が300騎ほどになり、再び戦闘開始です。

♪木曽殿、その日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、いか物作りの太刀を帯き、鍬形打つたる兜の緒を締め、二十四差いたる石打ちの矢の、その日のいくさに射て、少々残ったるを頭高に負ひなし、滋藤の弓の真ん中取って、聞ゆる木曽の鬼葦毛と言ふ馬に、金覆輪の鞍を置いて・・・・♪

 敵の中に討ち入ったが、合戦の末に主従は5騎になってしまいます。
 中に残った巴に、義仲は、もうこれまでと、
「自害の間際にまで女を連れているのは恥ずかしい。東国に落ちていくよう」
 とすすめます。
 拒んだ巴ですが、最後に勇ましい働きをしたのち、鎧兜を脱ぎ捨てて、その場を離れたのでした。
 巴は、木曽主従の後世を弔う役を与えられたのです。

 義仲は、普段は何とも思わない鎧が重い、と弱気になり、今井四郎は、なぐさめ励ましつつも、
「名も無き郎党に討たれるのは恥だ」と、言い、近くの松林での自害をすすめ、自分は敵の中に駆けこんで

♪遠からんものは音にも聞け、近からん人は目にも見給へ。木曽殿の乳母子に、今井四郎兼平とて、生年三十三に罷りなる。♪

 と敵の矢にも当たらず大奮闘。

 しかし
♪頃は正月二十一日、入相ばかりの事なるに、薄氷は張ったりけり♪

 日暮れ時で暗くなっており、義仲の馬は深田にはまってしまい、相模国の石田次郎に討たれてしまいます。

 今井四郎はそれを聞き、今はもう誰を庇うことが有ろうかと、太刀の先を口に含んで馬から飛び落ち、体を貫いて自害し果てました。

 西行は、義仲の死を知り歌を詠みました。(これは平家物語にはない)

*朝日にやむすぶ氷の苦はとけむ六つの輪を聞くあかつきの空

(朝日がのぼってきた。これで、氷のような苦しみも溶けていくのだろうか。
 暁の空に錫杖の音がどこからともなく聞こえてくる。)

*しずむなる死出の山がわみなぎりて馬筏もやかなわざるらむ

(人が沈んでゆく。川が死出の山となって濁流に武者たちが次々と呑まれてゆくのだよ。馬筏もこの流れには敵わないと見えて)

*木曾人は海のいかりをしずめかねて死出の山にも入りにけるかな

(木曾に育った武者はついに大海の怒りを静めることができず、死出の山路を越えることになったのだろうか)

「樋口の斬られ」
 今井四郎の兄の樋口次郎兼光は、都にはせ参じる途中で今井の下人に出会い、義仲主従の死を知らされます。
 郎党たちに
「君に志深いものは、これから落ちて義仲の死を弔ってほしい。自分は敵討ちをする」
 と、落ちることを進めたので、鳥羽についた時には20人余りになっていました。

 樋口次郎は知り合いの児玉党に生け捕りにされ、児玉党の人々は樋口次郎の命を助けるよう範頼、義経に懇願します。

 義経は命を救おうとするのですが、院の公卿、殿上人、女房たちは、法住寺での木曽への恨みで大反対、ついに樋口次郎は斬られてしまいます。

1月20日
 今週のNHKラジオ、五味文彦先生の「平家物語」は、「樋口の斬られ」「六箇度合戦」「三草勢揃へ」「三草合戦」「老馬」。

 平家は、前年の冬から讃岐の国の八島を出て、摂津の国難波潟に渡り、形勢を立て直し、西は一の谷に城郭を構え、東は生田の森を大手門としています。
 福原、板宿、須磨、山陽道8カ国、南海道6カ国、合計14カ国を従え、兵は10万余騎を数えます。

 しかし、平家が一の谷に渡ったのち、四国の者たちは平家にそむいてひそかに源氏に従うようになっています。
 
 寿永3年正月29日、源範頼、義経は院に参り平家追討のため西国に立つと報告します。
 後白河院は、3種の神器を持ち帰るよう命じます。

 2月4日は清盛の忌日が福原で行われ、官位を授ける除目の行事も行われました。
 都の御所ではないけれど、帝がいて三種の神器がある除目は、不条理というわけではない・・・と平家物語は語っています。

 平家が福原まで上ってきたことを聞き、都では期待する人たちもいるのでした。
 小松中将惟盛は、都に残した北の方や幼い子たちのことを嘆き、文をやりとりする中に、都での窮状を聞き、呼び寄せようと思うのですが、また今よりももっと苦しい目にあうかもしれないと、思い留まったりします。

 源氏は2月4日に戦をしようとしますが、清盛の忌日、5,6日は日が悪いとのことで、7日に一の谷の城戸口での矢合わせを決めます。

 源氏の大手の大将軍には範頼が5万騎、からめてには義経が1万騎を擁し、義経軍は丹波と播磨の境にある三草山の東の原に陣をとります。

 平家の大将軍は小松三位資盛で、3千騎で三草山の西の山口に陣をとります。

 その夜、義経は平家は3里ほど先に陣を張っている、夜討ちにしようと思うが・・・と謀り、
 小野原の在家に火をかけるのをはじめとして、野にも山にも木にも草にも火をかけると、火はたちまちに燃え広がって3里先まで広がります。 

 夜討ちなど思いもよらなかった平家の人々は、あわてふためく中を、源氏の兵に討たれてしまいます。
 
1月27日
「老馬」は、山の案内人として、老猟師の息子を仕えさせる。その鷲尾三郎は、衣川の戦いで義経が討たれたときに、一緒に死んだという。

「一二の駆け」
は、悪所の坂落としでは功名をあげられないと、息子の小次郎に図った熊谷次郎兼実が、義経軍より先に夜半に脱出、同じ源氏の平山季重の偵察をしたりして、一の谷先陣の名乗りをあげたりする。

「二度の駆け」
は、生田の森を固める5万余騎の源氏の兵の中に、武蔵の国の河原太郎、次郎という兄弟がいて、なんとか功名をあげたいと、2人で逆茂木をのりこえて平家の陣中に入ります。

 平家方はこの大勢の中にたった2人で来るとは、と見ていましたが、彼らが盛んに矢を射るので、平家の、備中の国の真名辺兄弟の弟の五郎が、弓で射て殺します。
 その首を大将軍知盛に見せると、
「立派な武士なのに、惜しいことをした。命を助けてやりたかった」
 と言うのでした。
 その後、河原兄弟の死を知り、梶原景時、子の源太景季、三郎景家が、生田の森の木戸を破って平家に攻撃します。

2013年2月3日
 「坂落し」「盛俊最期」「忠度最期」でした。

「坂落し」
 鹿が一の谷へ下りていくのを見た義経は、馬でも下りられると判断、義経を先頭に崖を駆け下り、平家の仮屋を焼き払います。

 平家の兵たちは、助かろうとして船につめかけ、その重みで渚から三町ほどで大船も3艘沈み、その後は位の高い人たちを乗せ、雑人は乗せまいとして長刀で打ち払い、それでも乗ろうとする人たちとの争いもあり、一の谷の汀は朱に染まったのでした。

 そんな中、能登どのは今までの戦で負けたことが無かったのに、今度はそうもいかず、薄墨という馬に乗って西を目指し、播磨の高砂というところで船に乗り、讃岐の八島にお渡りになったのでした。

「盛俊最期」
 知盛さまは、生田の森から東に向かって戦っていましたが、後ろを見ると西の方に黒煙が上がっているのを見て、人々とともに急いで落ち延びて行きます。

 越中の前司、平盛俊は清盛から愛妾厳島内侍を下待されて妻としていました。
 平家の鬼神といわれた剛の者でしたが、武蔵野国の猪俣則綱に討たれてしまいます。

「忠度最期」
 忠度は、青葉の笛の歌で
♪更くる夜半に かどを叩き
 わが師に託せし 言の葉あわれ♪

 平家の都落ちの時に、一度は発ったものの引き返して定家の父俊成の邸を訪れ「いつか平和な世になって勅撰集を編纂するときに、自分の歌も入れてほしい」と、選んだ歌を渡していきます。
 いよいよ最期。

 源氏の兵百騎ほどに囲まれても、騒がずに落ちていくところに、武蔵の国の岡部忠純が、兜の間から顔を見ると、鉄漿をしていたので、これは平家の公達であると、討ちかかります。

 忠度は熊野育ちの屈強な武者であるので、戦うのですが右手を切りおとされてしまい、いまやこれまでと、
 西を向き念仏を唱えたのちに首をとられます。

 岡部は、
「良い首討ち奉ったりとは思へども、名をば誰とも知らざりけるが、箙に結つけられたる文を取って見ければ、「旅宿の花」と言ふ題にて、歌をぞ一首詠まれたる。
*行き暮れて木の下蔭を宿とせば 花ぞ今宵の主ならまし

 忠度と書かれける故にこそ、薩摩守忠度とは知りてげれ。」

 岡部が勝ち名乗りをあげると、敵も味方も
「あないとほし。武芸にも歌道にもすぐれて、よき大将軍にておはしつる人とて、皆、鎧の袖をぞ濡らしける。」
 だったそうです。

*源平の戦で、武蔵野国の武士の活躍が詳しく書かれているのは、作者の信濃前司行長が平家物語を語らせた琵琶法師「生仏=しょうぶつ」が、東国の出身で、主に武蔵の国の武士に話を聞いたから、というのと、鎌倉幕府の中でも彼らの存在が大きく、頼朝自身彼らの協力を得るのに腐心したし、後の承久の乱でも、まずは武蔵の国の武士の協力をとりつけたほどだったそうです。 

 









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